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国分寺・国分尼寺

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国分寺

国分寺と言う名の付くお寺は、日本全国のあらゆるところで見られると思います。これは、741年に聖武天皇が仏教によって国家を鎮静化させて、国家安泰を祈る目的で一国に一寺建立したものが現在でも残っているものです。

この時の聖武天皇の詔の内容は、続日本紀、類聚三代格にその詳細が記されていますが、それによると、国ごとに七重塔を建立し国分僧寺、国分尼寺を建て、塔ごとに妙法蓮華経(法華経)と金光明最勝王経(金光明経)の写経を納めること、国分僧寺には金光明四天王護国之寺、国分尼寺には法華滅罪之寺と名付けるようにと言うようなことが定められていました。

また、「国の華」としての国分寺を建てる場所には、交通の便や災害が少ないなどを考慮して、その国の一番良い場所を選ぶようにとされていました。僧侶の数は、国分僧寺には僧が20人、国分尼寺の尼僧は10人と決められていました。また、国分僧寺には封戸50戸、水田10町が、国分尼寺には水田10町が施されました。こうして、全国およそ60箇所に国分寺、国分尼寺が立てられました。この寺院の建設費用は、すべて人々の負担によるものでした。国分寺、国分尼寺の総本社は奈良の東大寺です。

では、聖武天皇がこのような詔を出された、その当時の情勢はどのようなものだったのでしょうか。奈良時代のその頃、国内では日照りが続いたり、台風の影響や地震が発生したりと、自然災害による農作物の被害に見舞われ、飢饉が起きていました。また、大陸(新羅国)から天然痘が伝わり流行しました。

聖武天皇と妻である光明皇后との間には長男が誕生しますが、この子は生後まもなく亡くなってしまいました。藤原鎌足の次男で、飛鳥時代から奈良時代初期の間、政権を握った藤原不比等の四人の息子であった藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、皇族で政界の重鎮であった長屋王が呪い殺したのだとして、その責任を追及しました。このことによって、長屋王は自殺にまで追い込まれてしまいました。これを長屋王の変と言います。

この後、藤原四兄弟が729年から737年にかけての間、政権を握ることになりました。この政権は、藤原四子政権と呼ばれています。しかし、この藤原四兄弟は、天然痘の流行によって相次いで病死してしまいます。

藤原四兄弟の死後、藤原氏は一時期の勢力を失い、藤原宇合の長男であった広嗣は政権に不満を持ち、太宰府で反乱を起こします。これが藤原広嗣の乱です。また、当時の農民には重い税制度が課せられていて、民衆はその税の負担に苦しんでいました。一方で民衆の税で潤っていた貴族たちは裕福な生活をしていました。民衆の中には税を逃れるために逃亡したり、浮浪者になる者も現れ、強奪なども起こっていました。こうして治安は悪化して行きました。このような時代を仏教で鎮静化させようと聖武天皇が国分寺建立の詔を出されたのです。

東大寺

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